餃子考 [生活]

餃子考

先日の記事で餃子パーティのご案内を差し上げましたが、その餃子についてのエッセーを南京の大学で教鞭を執っておられたH先生からいただきました。

 餃子ほど庶民に愛される小食(今は小吃という)はない。本場の中国はもとより、台湾、日本でもそうだ。宇都宮や浜松は天下に名高い餃子の街、消費量日本一をめぐって熾烈な戦いを繰り広げている。今回のB1グランプリにも津ギョウザ(三重県)、浜松餃子(静岡県)が出店した。
 知名度はいまいちだが、わが街にも餃子で「まちおこし」をしている地区がある。八幡地区だ。五八店が名を連ねている。今し方のニュースで二六日、二〇一四年度「全国餃子サミット」の開催地に八幡が決まったと放送していた。やはり餃子の街として開催地を誘致するだけの力量があるのだろう。八幡餃子は一九〇一年、官営八幡製鉄所開所時、中国東北部から鉄鉱石が輸入されるようになり、人びとの往来の中で食文化も一緒に転伝したらしい。ということは、かれこれ百年以上の歴史があることになる。以来、鉄都にふさわしい「鉄鍋餃子」が考案され、多種多様の変わり餃子ができ、今日の八幡餃子を産んだ。八幡は労働者の街、B級グルメの餃子が定着していく条件があった。現在、八幡の餃子は鉄鍋系、大陸系、ラーメン系、お母さん系の四系統がある。鉄鍋系は餃子を熱々の鉄鍋に載せて出すスタイル。大陸系は厚手の皮とジューシーな具、ラーメン系は水の代わりに豚骨スープを使った餃子。お母さん系は家庭味が特徴。
 ところで、餃子とは何か?こう上段に振りかぶると答えに窮する。もっともポピュラーな『中日辞典』(小学館)には「普通は水ギョウザなどのゆでたものか蒸したものをいう。日本でよく食べられる焼いたものは鍋貼児という。」とある。浩瀚な『中日大辞典』(大修館書店)は餃餌、餃子、角児、角子、方言の扁食等の異称を紹介して、「小麦粉で作った薄皮に、ひき肉・野菜などを入れて柏餅形に包んだもの。蒸したものは[蒸餃]といい、ゆでたものは[水餃子][煮餃児]北方、煮餑餑といい、平鍋に油をひいたものに並べて片面だけ焼いたものは鍋貼、たっぷり油を流した鍋で揚げたものは[煎餃]という。ギョウザは、山東韻の訛ったもの」と記す。ところが、鍋貼児を辞書で引いてみると、「焼き餃子。参考として鉄なべの上に油をひき、少量の水で蒸し焼きにしたギョウザ。日本のギョウザはこの鍋貼児に相当するが、中国では餃子というと普通、水餃を指す。」(小学館)とする。大修館版は「焼き餃子」とそっけない。ここから判明するのは、日本の焼餃子は餃子とは言わないという事実である。
 そこで八幡餃子の内訳をみると、ほとんどが焼き餃子か揚げ餃子。水餃子はわずかに三軒のみ、蒸し餃子(湯麺餃)にいたっては一軒もない。揚げ餃子はたしかに煎餃といえる。しかし、辞書に従えば焼き餃子は鍋貼児だとせねばならない道理である。鍋に貼りつけ、一辺だけを焼き、あとは蒸気で煮るやり方は確かに似ている。

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 しかし、焼き餃子は鍋貼児か、辞書に文句を言うようだが、そこが問題だ。第一に、この二つは大きさが違う。鍋貼児は格段に大きい。第二に包み方が違う。ギョウザは円形に伸ばした皮に餡を置き、半分に折り、指でひねって縁をつないで密封するのに対して、鍋貼児は上下から皮を重ね、形を整えるのである。したがって左右には餡が若干見える格好になる。よって第三に形が違う。餃子は半月形、鍋貼児は長円形。こう考えて来ると、煎餃や鍋貼児を焼き餃子と訳す大方の辞書は間違っているか、正確ではないかのどちらかだといえないか。証拠はある。餃子に扁食の異称があって、鍋貼児にはそれがないことだ。興味のある向きは多くの辞書を引かれたい。その寓意を見抜いた人は、思わず手を打って得心するにちがいない。私は、日本の焼き餃子はわが国固有に進化した餃子であると思う。確かに焼き方は鍋貼児だが、作り方は餃子だ。したがって焼き餃子の中国訳はいまだ存在しないというのが私の率直な言い分だ(笑)。そこで無理に訳すとすれば、炒餃か焼餃がいいのではないか。自信はない。むろん、鍋貼児が餃子の一種であることは認めた上での話である。
 子供の時分、母はよく餃子を作ってくれた。父もジンギスカン鍋が好きで、よく食卓に羊肉を上せた。戦前、双親は新義州(北朝鮮)や安東(丹東)を生活の拠点としていた。そこで知り合ってふたりは結婚した。そういうこともあって中国料理や朝鮮料理が母の拿手菜だった。わが家の餃子はきまって水餃子だった。大人になって、世間に焼き餃子があるのを知って驚いた。ある日、母に訊ねた。「かあさん、うちのギョウザ、なんで焼かないの?」母は「焼きギョウザってね、昨夜食べ残したギョウザを翌日食べるとき、用心のためまた火を通すの。それが焼きギョウザ!そんなものおもてなしに出せるわけがないでしょう」と笑った。五〇年も前の、遠い昔の話である。
 以前、冬至についての雑文を書いたとき、餃子の起源は後漢末の名医・張仲景にまでさかのぼると指摘した。ところが最近発掘された春秋時代の銅器に残された餃子が発見され、また唐代墓のなかからも今のものによく似た餃子が見つかった。そうだとすると、私の説も南北朝時代に生まれたという通説も怪しくなってくる。各地に、それぞれの伝説があるのだろう。水餃は唐代では牢丸、宋代では角子と呼ばれた。そのほか、先の辞書が紹介したさまざまな異称もあった。餃子の名は明代が濫觴で、このころから餛飥(ワンタン)、焼麦(シュウマイ)との違いが明確になっていったようである。
 中国、特に北方では大みそかから正月五日、すなわち「破五」に至るまで餃子は欠かせなかった。今はこれも変化したが、初六にいたるまで米食を忌む習俗があったからである。除夕の夜に食べるのは、旧年と新年が相交わる子の刻。「相交子時」の交子は餃子の諧音、新年の始まりを意味した。よって餃子を愛食する習慣が広まった。これが我が国に伝わらなかったのは、不思議といえば不思議である。

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