小林会員の出版予定本の抜粋 [ニュース]

本会の小林会員による出版予定の本の原稿です。

「東京オリンピックは なぜ中止された?~日本経済崩壊させた『中国戦争』」
抜粋1 (第1章「鋼材六百トンなかった」より)

「メーンスタジアム建設用鋼材六百トンを手配できないと分かった事が、決め手でした」
 主催者である東京市(当時)の五輪担当者らは、一九三八年七月一六日にオリンピック組織委員会が、四〇年東京大会開催の中止・返上を決議した内部事情をこう語ります。返上とその理由はすでに一カ月ほど前、五輪組委関係者らが新聞紙上でほのめかしていました。
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1940年オリンピック東京大会の競技場完成予想図
 東京市としては、十二万人収容の新スタジアム建設は、絶対に譲れない線だったのです。これに対し大蔵省(当時)は前月末、「既存施設だけを使うのでなければ、起債によるオリンピック予算調達を認めない」強い姿勢をみせていました。東京市は当初、スタジアム建設資材として鋼材一千トンを請求。これを、一部木造にするという安全性に疑問符が付くような設計変更の荒業を使い、六百トンにまで減らしました。それさえも、大蔵省は認めなかったのです。昭和十三年六月二五日付の読売新聞は見出しで「組委会、大むくれ」と報じました。
 小橋一太・東京市長は当時、「オリンピックを国策に譲った」と苦渋を吐露しています。当時の日本の粗鋼生産は年約五百万トン以上ありました。その数千分の一程度でさえ、国家行事であるオリンピックに拠出できない、国策があったのです。
【総動員法と鉄製品禁止】
 東京市長のいう国策とは、一九三八年四月からの総動員法の施行と、これに基づいて重要物資を国内各分野に配分する「物資動員計画」(物動)です。前者は、その第一条で次にように国家総動員を定義しています。
「国家総動員とは、戦時(戦時に準ずる事変の場合をふくむ)に際し、国防目的の達成のため、国の全力をもっとも有効に発揮せしむるよう人的および物的資源を運用するをいう」 
 一九三八年六月二三日には、次の内容の閣議決定が出ます。
 「戦争遂行に直接必要ならざる土木建築工事は現に着手中のものと雖も之を中止す」
 戦争と関係ないオリンピックスタジアム建設などもってのほかになったのです。
 これより先、日中戦争が本格化した一九三七年十月、すでに鉄の消費統制が始まっていました。「昭和十二年鉄鋼工作物築造許可規則」が公布されたのです。軍需物資以外の製造には鋼・銑鉄、 鋼くずを使用してはならないという厳しいものでした。子供の玩具から文鎮、鉛筆削り、灰皿、コンパクトからタライ、火鉢から広告塔のネオンサインやエレベーター、交通標識や欄干・手スリまでおよそ百五〇品目の製造が禁止になりました。日中戦争の悪影響は、国民生活の隅々にまで及んだのです(藤原彰著「昭和の歴史第5巻日中本格戦争」)。
【軍需生産力、大拡大】
 日中戦争の本格化とともに、昭和十二年度(~十三年三月まで)の軍事予算は、陸海軍合計で四八億円あまりに達しました。陸軍だけでも二三億円。これは従来の一般会計国家予算に計上されていた陸軍予算の約十倍。この巨額予算は、大幅な増員と軍用機を含む兵器・弾薬の増産および生産設備拡充に投じられます。
 例えば、陸軍の通常兵器生産力拡大のため、従来四カ所だけだった造兵廠(兵器工場)が八カ所に増えたほか、補給廠も倍の八カ所に増えます。これらに兵器行政本部および技術開発研究所十カ所が加わり、総員二五万人七千人が勤務する「大企業」になりました。
 さらに航空機部門が充実され、航空本部の下に、航空工廠一カ所、技術研究所八カ所、補給廠が設けられます。これに電波兵器(レーダーなど)を研究する陸軍技術研究所の新設、従来からの燃料廠、被服廠、糧秣廠、衛生材料廠、獣医資材廠などの拡大充実が加わり。陸軍だけで傘下の軍需生産労働力は、百五〇万人の大所帯に膨れ上がります。
 一九三六年度まで、全工業に占める兵器生産の比率は四~五%にすぎませんでした。これが三八年度に十二%に跳ね上がります。対英米開戦の四一年度には三〇%、四四年度には五八%とピークに達します。すでに「十二%年度」、鉛筆削りさえも生産禁止になったのです。「五八%年度」の国民生活の貧しさは、現代人の想像を絶します。
【鉄、過半が輸入】
 兵器はじめ軍需品の大増産に最も必要だった物資が、五輪スタジアム資材と重なる鋼材です。鋼材は、当時の「産業のコメ」でした。日本の「コメ」生産は、第一次大戦中から原材料を輸入に依存していました。アメリカから安価で良質のスクラップ、英領インドから安い銑鉄を大量に輸入できたからです(銑鉄=鉄鉱石を還元してできる炭素含有率が高く、硬いが割れやすく構造材に向かない鉄)。
 当時の日本製鋼材は、主に中国と英領マレー半島から輸入される鉄鉱石から作られる銑鉄に、スクラップ五〇~六〇%を混入して平炉で製造されていました(中原茂敏著「大東亜補給戦」参照)。日本では、質が高く大量の鉄鉱石もスクラップも産出していなかったのです。もし、英米と戦端を開けば、原材料輸入の途絶で、日本の鋼材生産=兵器生産は壊滅的打撃を受けることは明白でした。 
 特に米国産スクラップは、石油と違い、東南アジアや中国を占領しても獲得できる見込みがまったくない物資でした。対米戦争を開始し一定時間が経過すれば、日本軍は竹槍とベニヤ製特攻艇で戦うことなるのは、開戦前から明白だったのです。そもそも日本の粗鋼生産力=国力は、連合国主要メンバーのどの一国よりも少量でした(グラフ1)。連合国の兵器廠と化したアメリカの生産力が、戦時生産に集中された場合の一例がグラフ2です。輸送力の要である船舶建造量で、日本に十倍以上の差をつけました。さらに、この事実は日米開戦前、日本側に予測されていたのです。
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抜粋2 「日本の主戦場=中国」(「はじめ」により)
 日本人の多くは、太平洋戦争の主戦場を、南方(南西太平洋と東南アジア)だったと誤解しています。確かにパールハーバー空襲で華々しく開戦。その後、フィリピン、マレー半島、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシアを占領した後、ミッドウェー海戦とガダルカナル島争奪戦敗退で転換点を迎え、サイパンなど各島守備軍玉砕を経て、フィリピン陸海戦での大敗で日本の敗戦は決定的になりました。いかにも主戦場にみえます。
 しかし対英米開戦時、日本陸軍総兵力の三分の二(二百十万中、百四二万)は、どこに駐屯していたでしょうか?
 陸軍臨時軍事費(戦争予算)の海外地域別配分が最も多かったのは、どの地域だったのでしょうか?いずれも中国大陸(満洲・朝鮮含む)でした(グラフ①参照)。
 「太平洋戦争の天王山」といわれたフィリピン攻防戦の最中でも、陸軍は中国で同軍史上最大規模の兵力五〇万を動員、連合軍空軍基地群への一大攻勢「一号作戦」(通称・大陸打通作戦)を戦っていました。同年に、マリアナ沖やレイテ沖で大海戦を展開した海軍臨時軍事費の海外配分も、中国戦線向けだけで全体の約半分を費やしていたのです(グラフ②参照)。
 「天王山」を目前にひかえながら、最大規模の膨大な人員、物資、資金が「大陸打通」に投じられた理由は、中国大陸での作戦が、帝国陸軍にとって天王山防衛に勝るとも劣らぬ重要な軍事行動だったからに他なりません。中国戦線の陸軍全戦時予算に占める比率は一九四四年、四八%に達しました。
こうしたマクロの視点でみれば、中国戦線は間違いなく、第二次大戦期を通じて日本にとっての主戦場だったのです。私は、中国大陸(ビルマ、インド東北部含む)での日本軍対連合軍の戦争(一九四一年十二月八日~四五年八月一五日)を、勝手に「中国戦争」と呼んでいます。ロシアがソビエト連邦時代から、第二次大戦欧州東部戦線の戦争を「大祖国戦争」と呼んでいるのに倣いました。日中戦争は中国戦争に拡大し、日本の戦場での敗北を決定したのです。
 本書では、中国戦線と南方戦線の日本軍同士の物資の取り合い、さらに戦中にも天下り先づくりに精をだす軍人の醜態もふくめ、中国が日本にとっての主戦場だったことを明らかにします。
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グラフ上左、出典:森本忠夫著「魔性の歴史~マクロ経営学からみた太平洋戦争」参照
グラフ上右 出典:同じ

抜粋3 
「満洲国はポンドで買え」(第3章 満洲事変、ボタンの掛け違い英敵視より)
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右から、リース=ロス英政府主席財政顧問(当時)、宋士文・中国蔵相(同)、満洲国執政に就任する溥儀
 「満洲国は、中国政府から買いなさい。資金は貸与しましょう」
 一九三五年九月に来日したイギリスのフレデリック・リース=ロス政府首席財政顧問(一八八七~一九六八年)は、英日協調外交推進のため、言い回しはこれほど露骨ではありませんが、右の内容の大胆な提案を、日本政府に行いました。資金を提供した上、当時の世界の主要国が一国も承認していなかった満洲国を承認してもよいというのです。リース=ロス顧問は、一九〇九年に英大蔵省入省、三二年からは国際連盟経済委員会の英代表、三六年に同委議長を歴任した国際財政家です。
 リース=ロス顧問が広田弘毅外相、高橋是清蔵相らと会って示した英政府案は、日本が中国の通貨改革に資金協力をする代わりに、日本の傀儡国家・満洲国の独立を、中国政府に黙認してもらうものでした。資金一千万ポンド(約三億円=現在の六千億円相当の価値)を日本に貸与、これを日本から満洲国へ供与して、同国を通じて中国政府に渡して独立を認めてもらおうというのです。
リース=ロス顧問の極東訪問の最大の目的は、中国の通貨改革の援助でした。中国では当時、主に銀本位制の通貨数十種類が入り乱れて使われていたのです。一九二〇年代末、一度は国内の政治統一を完成した国民党政権にとって、統一を実質化するための通貨統一は焦眉の急でした。これと引き換えならば、満洲国独立を中国が少なくとも当面は黙認するだろうと、イギリス政府は腹づもりをしたのです。
 日本の侵略を、中国に追認させようというのです。日英同盟以来のイギリスの日本に対する好意にみえますが、それだけではありません。第一の目的は、金本位制から離脱してまもない英ポンド経済圏に、当時でも世界最大級市場の中国を組み込む計画です。日本は、借款を受ければ元利を償還しなければなりません。一番得をするのは、英国なのです。
 しかし日本側の反応は冷たいものでした。
 「いまさら中国に満州国を承認してもらう必要はない」(広田外相)
 第三国はだまっていろ、というのです。日露戦争時、英米で日本の戦時国債募集に奔走した高橋是清蔵相の反応は、なぜか記録に残っていません。高橋蔵相は翌年二月、二二六事件で反乱軍の凶弾に斃れます。
 リース=ロス顧問は、気を取り直して中国へ向かいました。中国では、宋子文蔵相(蒋介石の義兄。米コロンビア大学卒、経済学博士)らが待ちかねていたのです。顧問らを交えた統一通貨政策立案集団を編成し、十月末までに細目を詰め、十一月三日に断行しました。一九三五年十一月四日以降、中央・中国・交通の政府系三銀行の発行紙幣をもって、国内唯一の兌換通貨法幣としたのです。
【亡国寸前の中国、救った幣制改革】
「もし今次の抗戦が一九三五年(幣制改革の年)以前に発生したならば、中国はもっと早く敗亡し、或はすでに(屈)辱を忍んで和を求めていたかもしれない」
「現在は幸にして法幣(中国統一通貨)制度が存在し‥‥これによって狂風暴雨の局面に際し、良好な金融及び経済的秩序を維持し、長期抗戦の基礎を定めることができる」
 当時の中国政府最高指導者の蒋介石は、一九三九年初頭に刊行した著書「抗戦と建国」で右のように述べています。通貨改革がなければ、中国は「亡国か降服していた」のです。 
 中国では従来、さまざまな通貨が入り乱れて流通していた理由の第一は、政治的統一の遅れでした。さらに経済の中心である沿岸部が、英仏など帝国主義諸国により経済、金融的に分割支配されていたためです。
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事実上の中国中央銀行だった旧香港上海銀行本店ビル(現・浦東開発銀行本店ビル)
 中国通貨改革の最大の決め手は、当時中国最大手行の地位にあり、全関税収入を管理し、事実上の中国中央銀行だった香港上海銀行(現HSBC)を筆頭とする在中国外銀が手持ちの現銀・銀貨を、法幣と交換してくれるかでした。英資の香港上海銀は、スムーズに応じます。英政府は、追い討ちをかけるように三五年十一月四日以降の在華イギリス人による銀の通貨としての使用を禁止しました。外銀は、邦銀を除き、三六年一月十日までに、すべての銀を法幣に換えます。国民党政府は、これに預金でもないのに年利五%を支給し応えました。金額が莫大でしたから、外銀に願ってもないビジネスになり、国民党政府への信頼を高めます。
中国は、対日本格開戦以来、戦場では日本軍に押され続け圧倒的に不利でしたが、外為相場は暴落しません。一元=十四・五ペンス(一ペンス=二百四〇分の一ポンド)の公定相場は、首都南京が陥落し、臨時首都・武漢に日本軍が迫り、中国政府が重慶までの再遷都を迫れられていた一九三八年六月、同九ペンスへ下がっただけです。イギリスの支援のたまものでした。事実上英資本が支配していた上海租界で、中国発券三行が、同支援を背景に必死で法幣を買い支えていたのです。
 一方日本円は日中本格開戦後、従来百元=百円だった相場が円安基調を継続。一九三八年五月には、百元=百三四円の最安値を付け、中国駐留日本軍の財布を直撃しました。さらに、日本国内の経済計画も支障をきたします。
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当時の日本銀行券(左)と中央銀行発券の法幣

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