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【投稿】万象書坊―キャンパスの中の別空間 [現代中国]

今回は貴州在住のN氏からの投稿です。

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立地条件というものは、どんな店であれ大切な条件である。どんなに「ウマイ」と言われる店でも、それが適していないと繁盛にはつながらない。「笑門」のように、ビルの32階という不便なところにあって大繁盛の店もあるが、これは例外中の例外だろう。ところが、驚くべき条件を有している書店がある。なんと、、読書人の集中する南京大学の鼓楼キャンパスのど真ん中に、とある書店があるのだ。「万象書坊」である。
以前は、青島路にあったが、店主の王琳さんの英断で南大北門のビルの一角に移転したそうだ。さて、店内に入ってみると…。
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おやおや。村上春樹全集ではないか。おや、こっちには、日本を代表する二人の映画監督の写真が。
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それもそのはず。王琳さんは日本語が上手。日本文化に造詣が深いのである。

店内には喫茶店も併設されている。かなり広いスペースである。
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誰でも「えっ本屋さん?喫茶店じゃないの?」と思うだろう。そのとおり。本屋さんの喫茶コーナーというより、本格的な喫茶店なのだ。南大の留学生寮のすぐそばなので、パソコンを前に静かに勉強する外人さんの姿も。
音楽が流れる静かな別空間である。鼓楼キャンパスを散歩した後、フラリと、そうフラリと訪ねたらどうだろうか。(H.N)



愛知県と江蘇省 [現代中国]

愛知県と江蘇省

かなり前の話だが、名古屋(南京の姉妹都市)出身の友人と北海道をドライブしていた時。その友人が三河ナンバーの車を見かけるや否や「三河もんに負けられるか。スピード上げろ」とわめきだした。同じ愛知県でも三河と尾張は別の文化に属すると言ってよく、双方にこのような「前近代的」な対抗意識があるらしい。言葉の面でも三河は東国方言で尾張は東と西の中間地帯であり、何よりも権現様と太閤さんというライバル関係がある。どうやら「愛知県」というのは明治政府が無理に作り出した行政区画らしい。

江蘇省もそうである。長江より北(蘇北)は北方方言の地域であり、南(蘇南)は呉方言いわゆる上海語の地域である。双方の言葉はまったく通じない。経済格差も大きく、上海~無錫一帯は「世界の工場」の一つであるが、蘇北はほぼ農村地帯と言ってよい。出身者を見ても、北の人間は素朴だが、南の人間は洗練されているという感じがする。「江蘇省」というのもやや無理がある行政区画なのかもしれない。

「中国」というのはこのように様々な文化地域の集合体なのである。

歴史の証言-四人組打倒のその時期に [現代中国]

歴史の証言-四人組打倒のその時期に

筆者の鈴木征四郎氏はながらく出版・編集の世界で日中友好の事業に取り組み、定年後南京にて日本語教師をしてきた。1976年10月の四人組打倒のその日にも中国を訪問しており、そのリアルな実態を目にしている。以下の文章は、原文は南京農業大学の雑誌『寂静之声』(昨年5月刊)に寄稿された中国語であるが、筆者の許可を得て編者が日本語に訳したものである。

1976年10月、私は「日本出版業界日中友好編集者会」訪中代表団の副秘書長として、はじめて上海と南京を訪れた。
10月8日、上海虹橋空港に降り立った後、私たちは中国国際旅行社の車で外灘にある和平飯店へと向った。途中の街々には数多くの「大字報」が貼られていた。一年前(1975年4~5月)、私ははじめて中国(北京と東北地区)を訪問していたので、大字報というものをどう読んだらいいのかわかっていた。その後、上海市内を参観し、また上海文化聯合会との座談会に参加した時にも、特別な変化というものを感じなかった。
11日、上海から列車で5時間半かけて南京へと向い、その後、南京飯店で江蘇省出版局の責任者など6人のスタッフと熱のこもった交流と討論を行なった。私たちは南京飯店に三日宿泊し、午前中には長江路小学校、省中医病院、市民市場(新街口)そして完成したばかりの長江大橋を参観した。その時、「長江大橋の建設にあたってはいかに自力更生でこれを進めたか」などという解説を受けた(今でもその時いただいた大橋の記念絵葉書を手元に残している)。私たちは事前に、日本で言うところの「南京虐殺」の現場を参観し追悼したいと申し入れていたが、許可は得られなかった。午後には、玄武湖、動物園、中山陵、明孝陵、霊谷寺などの名所を遊覧した。そして、夜には解放軍の招待所で紅小兵の演ずるプログラムを観賞した。
この年、周恩来総理、毛沢東主席が相継いで亡くなったので、南京の街でも数多くの追悼のスローガンや大字報が見られた。例えば、「偉大なる領袖・導き手毛沢東主席は永久不滅である。毛主席は永遠に我々の心の中にいる」、「悲しみを力に変えよう。毛主席の遺志を受け継ぎ革命事業を徹底的に推し進めよう」「世に難事はない。ただ登りつめる意志がありさえすれば」などである。
ガイドの紹介によると当時の南京の人口は300万人前後だったそうである。中心街には高層ビルはなく、道行く車も少なかった。私は、南京は比較的閑静な都市であると感じた。当然空気も澄んでいた。
14日になって、私たちはまた汽車で鄭州-安陽・林県-北京へと向った。鄭州市内で、私は、街中に以前とは異なる変化が起こっていることに気付いた。数多くの大字報には「うれしい」、「喜ばしい」、「間もなく夜明けだ」などの文字が現われたのである。そして、その大字報を見る人たちの表情にも喜びが溢れていた。
私はただちに団長に報告した後、北京駐在の日本の各新聞社の友人の記者に電話し「いったい中国ではどんな事件が発生したのか」と尋ねた。その時の彼らの返答は「『四人組』が打倒された。文革は終わった。あなたがたは旅程を変更してすぐに首都に来るべきだろう。とても興味深い」というものだった。後に、代表団に同行していた通訳もこのことを認めたのである。
北京に着いた時には、私たち自身も関係者や市民がたいへん喜んでいるのを見て取った。私たちの帰国の数日前には、天安門広場で「四人組打倒を祝う100万人パレード」が行なわれた。当然私たちもそれに参加した。人々は自分たちで作った三角形の小旗を我々外国人にくれた。私は今でも二つのその小旗を手元に残している。参加者たちはドラや太鼓を打ち鳴らし、笛を吹き、旗を振り、歌を歌い、狂喜乱舞していた。非常に賑やかな光景だった。
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2001年の定年後の2003年2月、私は久しく訪れることのなかった南京にまたやって来た。そして、日本語教師としてこの地で9年間あまりを過ごしたのである。
このごろ私は、10月になるたびに、当時の南京でも多くの市民が新街口、解放路、中山路などでドラや太鼓を打ち鳴らし、歌い踊ったのだろうと想像するのである。(鈴木征四郎。訳N・H)

阿Qは自己変革ができる [現代中国]

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 いわゆるウェスタンインパクトに対して、第三世界の国民や政府が反応するタイプにはおおまかに次の三つがあると思われる。
     1、 阿Q的攘夷
     2、 大攘夷
     3、 全面的西欧化
 1の「阿Q的攘夷」は、もちろん『阿Q正伝』の主人公の言動からとったものである。
 阿Qは銭家の西洋かぶれの長男「にせ毛唐」を憎んでいた。こいつは辮髪まで切っている以上「外国のまわし者」に相違ないと阿Qは判断した。だから、阿Q的「革命」においては真っ先に「やっつける」対象になるのだ。「自分の理解できない事柄・人物はすべて敵」というのがこの阿Q的攘夷の精神である。
 この極めて偏狭な精神は、この小説の中だけに存在するものではない。長州藩士によるイギリス領事館放火、紅衛兵のイギリス大使館襲撃、ポルポト、タリバン、そして、ネトウヨとつい最近の・・・という現代のこの精神の後継者の存在がそれを物語っている。

 2の「大攘夷」は、幕末を舞台にしたかなり以前のテレビドラマからとった。薩英戦争の敗北に意気消沈し腹を切ろうとした薩摩藩士に、大久保一蔵が「これからは大攘夷だ」と言って士気を奮い立たせるという場面からである。
 大久保本人が本当に言ったかどうかはわからないが、印象的な言葉だったので採用した。この大攘夷の精神を一言でまとめると、「中体西用」(日体西用、韓体西用でもいいが)* となろう。つまり、「本国の伝統文化はそのままに西洋の物質的文明だけを採り入れ西洋列強に対抗していく」というものである。
 これは第三世界の開発独裁政権の基本的イデオロギーでもあり、より洗練すれば民族解放の理論にもなるわけである。
(* この言葉は厳密には清末の洋務運動の理念を指すものであるが、それを広く解釈してみた。)

 3の「全面的西欧化」については説明するまでもないだろう。ここではその根本的弱点について指摘するにとどめる。
 それは何よりも民衆的基盤がないというところだ。民衆から見れば、こうした思想は「字を知っている人たち」のわけのわからないお遊びにすぎないのだ。これが民衆蔑視と結びつけば、本来の理想とは対極のおぞましいものに変わってしまう。旧南ベトナム政府のフランスかぶれの無能官僚ども、まったく民のことを考えず権力闘争にあけくれた連中はその典型と言えよう。


 以上の3タイプはあくまでイデアルティプスであり、現実にはこれが混合した形で存在している。ここで私が強調したいことは、その合成のあり方によって(理想的とまでは言わないが)安定した政権が生まれたり、愚劣な政権が生まれたりするということである。
 とくに私が懸念するのは、2が1に近づいていく時、すなわち、開発独裁政権の指導者が民衆におもねるため、あるいは民衆の不満をそらすため、阿Q的攘夷を喧伝し始めた時、愚行は頂点に達する。シバリョウの「明治政府は健全で昭和の軍部独裁は不健康」という見方も、「2が1に近づいてしまった」ことの結果だけを見た表現と言えるかもしれない。

 そうさせないためにはどうすればよいのか。一つの答えは民衆の自己変革だと思う。そこに3のタイプの知識人層の役割が存在する。民衆を「阿Q」と見下し自分たちの「高尚な世界」にとどまるのではなく、「阿Qは変わることができる」という信念を持って、無数の阿Qたちのもとへ下りて説得していくことである。これは苦しく長い道のりだろう。しかし、私は必ずこの努力は実を結ぶと信じる。

 さて、慧眼な読者なら、私がなぜこんな雑文を書いたのか、また、なぜこのブログに投稿したのかおわかりであろう。これは過去の歴史についての話ではない。まさについこの間の(今でもくすぶっている)一連の出来事から得た感想なのである。(HN)

中国における都市と農村の収入格差調査 [現代中国]

 8年ほど前ですが、中国社会科学院経済研究所の『中国における都市と農村の収入格差調査』を要約した報告が載っている雑誌を購入しました。それをご紹介しようと思います。
 まず、次の表をご覧ください。

  年平均収入(表1) 元
    都市 農村 都市/農村
2002年 8,038 2,588 3.1
1995年 4,410 1,564 2.8

ジニ係数(表2)
  都市 農村 全国
2002年 0.319 0.366 0.454
1995年 0.280 0.381 0.437

 表1でわかるように、中国の都市と農村の収入格差は2002年で3.1倍になっていますが、これは世界でも最高の数字だそうです。しかも、これはあくまで貨幣収入の格差なのであり、社会保障・教育費補助などを考慮したら、実質的には6倍に達すると主張する研究者もいるとのことです。
 表2のジニ係数とは「収入の平等性」を示す指数(0≦ジニ係数≦1)で、この係数が高ければ高いほど格差が大きいことを表します。
 1995~2002年の間に、都市ではその数値が上昇し、農村では逆に下降しています。つまり、都市では富裕層がより豊かになり、農村では富裕層が減っていることを表しているわけです。 しかし、報告者は、これは農村全体が貧しくなったということを意味せず、都市の、とりわけ都市富裕層の収入増加のスピードが全国平均や農村のそれよりも急速であることを示していると、言っています。

 それでは、なぜ農村ではジニ係数が下降したのでしょうか。 これについて、報告者は次の三つの理由を挙げています。 
 一つは、農村戸籍の都市戸籍への移転です。農村の中で都市戸籍への移転ができる層は比較的裕福な階層と考えられますから、このことにより、農村の富裕層が減少したというわけです。
 二つめは、出稼ぎ農民の増大です。一見、このことは農村内部の格差を拡大させる原因のように思われますが、それは一部の者だけが出稼ぎに出た時代の話であり、現在では逆に農村の貧しい層にも現金収入を獲得する機会を与えたことになるわけです。 
 三つめは、税制改革です。以前の税制は報告者の用語を使うと累進課税とは反対の「累退課税」ということだそうです。 つまり、豊かな者にも、貧しい者にも一律の「平等な」課税額が義務付けられており、これが実質的な不平等を招いたというわけです。 この「不平等な平等課税方式」が改正されたことにより、農村内部の経済格差がやや縮小されたのです。 どうやら、報告者は、農村の収入平等化を「貧しさの平等」と捉えるよりも「豊かさの平等(への第一歩)」と捉えているようです。

 さて、報告者の言わんとすることをまとめてみると、こうなるでしょうか。
 農村も都市も豊かになりつつあることは間違いない。しかし、そのスピードにはあまりにも格差がある。これが世界で一番の都市と農村の格差を招いている。
※ 雑誌《財経》2004年第3・4期(2月20日発行)(中国証券市場研究設計中心刊) 李実・岳希明(中国社会科学院経済研究所研究員)《中国城郷収入差距調査》を要約。
(HN)


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