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長江の渡し船を体験する [民国残影]

長江の渡し船を体験する

5月25日、日本人会のイヴェントとして「長江の渡し船の体験」が行われました。

暑い日差しの中午前10時に集まった一行は、長江南岸の中山埠頭から渡し船に乗り込みました。よく見ると電気二輪車を載せている人もいて、この渡し船が観光用のものだけでなく、今でも日常的に利用されていることがわかります。
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長江大橋から見る風景はすでに体験済みの人もいましたが、この目の高さから見る長江は初めての人がほとんどでした。
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対岸は昔の南京北駅です。以前は北京から上海の鉄路はここでいったん途切れ、旅客は渡し船に乗って長江南岸に上陸し南京西駅から再び鉄路の旅を続けました。北京で亡くなった孫文の遺体もこのようにして運ばれ中山陵に葬られたわけです。

南京北駅には当時の線路が残っています。当時の北駅付近のにぎわいを思うと、何ともうら寂しい風景です。
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再び渡し船に乗り込み中山埠頭へ戻りました。ここから少し歩くと清朝末・民国時代の繁華街「大馬路」に着きます。ミニミニ「外灘」と言ったところでしょうか。
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そして、南京西駅(下関駅)です。この駅こそが清朝末・民国時代の「南京駅」と言ってよいでしょう。解放後その役割が現在の南京駅に移った後も、ここは長い間利用されていました。編者も数年前ここから黄山行の夜行列車に乗ったことがあります。しかし、一年前に廃駅になってしまいました。

本日最後に訪ねたところは「静海寺跡」です。ここには明の時代の大航海者、鄭和の「鄭和記念館」と「不平等条約資料館」があります。アヘン戦争後の不平等講和条約「南京条約」はまさにここで交渉が重ねられたのです。中国の対外関係の「誇り」の証しと「屈辱」の証しがここにあるわけです。
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南京旧影 [民国残影]

南京旧影
  
 一度でも南京に住んだことのある人は、ここかしこに重畳として存在する歴史に圧倒される。むろん、その間に栄枯盛衰があり、唐時代は荒廃に沈淪した。しかし十の王朝がここを都にした。こんな街は中国広といえども外にない。ここにたまたま縁あった自分の僥倖を誰に感謝したらいいのだろう。
 過日、南京林業大学のKさんより『南京旧影―老明信片―』(南京出版社)を恵贈された。どこを見ても古き良き時代の南京を彷彿とさせる絵葉書の集大成である。座右に置いて何度も繰ってみる。三〇年代の南京の顔だ。日本軍による破壊写真には胸が痛む。
 龍盤虎踞、六朝煙水、故都遺痕、府衙旧跡、科場学府、陵墓魅影、梵宮刹宇、市井百態、金陵万象、南京人、後記の章立て。そのほとんどは足跡を印したが、それでもかなわぬところがある。韓信点将台があったなどとは思いもしなかった。すでに隠滅の彼方だ。
 李白は詠う。
  鳳凰台上鳳凰遊
  鳳去台空江自流
  呉官花草埋幽径
  晋代衣冠成古丘
  三山半落青天外
  二水中分白鷺洲
  総為浮雲能蔽日
  長安不見使人愁
 ごらんのとおり、唐代には孫呉の栄華も今いずこ、鳳凰台には、その礎台がわずかに残るだけだった。劉禹錫も詠う。
  朱雀橋辺野草花
  烏衣巷口夕陽斜
  旧時王謝堂前燕
  飛入尋常百姓家
 かつての権貴、王導・謝安の住んだ屋敷の後には、百姓の家が空しく甍を連ね、燕が巣を作るのみである。この南京が栄華を取り戻すのは、南唐、宋以降、とくに明・清時代だ。しかしその栄華も長髪族の乱で灰燼に帰した。当面の三〇年代は国民政府の首都、国都の威容を整えた。この写真集には南京の細部が活写されている。秦淮の画舫、夫子廟の殷賑。先にも紹介した井上紅梅の孤本『支那各地風俗叢談』(大正一三年)に南京の菜館が紹介してある。
  前にも言った通り南京の菜館は料理に於いて格別の特色もないが、多くは川沿いにあるので景色がよく画舫に乗るのに便利である。その重なるものは金陵春、第一春、海洞春、万家春、問柳、長松、第一旅館、万全、六朝春などで、午前中は茶館を開く店もある。又小料理で一寸した店は旧王府の奇斎、嘉賓楼、貢院西街の小楽意、六味斎などであるがこれとても格別特色のあるうまい物を食わせるわけでもない。只小取廻しで便利だといふので一寸腹塞ぎに入る。要するに南京にはうまい物無しだ。

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老舗が集まる夫子廟地区

 今日においてもこれらの屋号を引き継ぐ店は絶えて一つもない。清末の永和園はさすがに古いが、晩晴楼はさほど老舗とは思えない。「南京にうまい物なし」は井上の味覚の話であって、実際は茶館、菜館が多くの人を誘引した。しかし、どこかにひとつぐらい菜館の名を留めていてほしかった。ところがこの写真集には一枝春が出てくる。この菜館は総二階でかなりの店構えだ。隣には大新照相という写場、そのとなりが夫子廟首都大劇院、その隣が大三元酒業社と読める。街並みははるかに続き、大衣を着た老百姓、荷車を曳くひと、自動車も見える。落ち着いた街のにぎわいだ。おそらく日本軍入城後の昭和十三年の春のころであろう。秩序が回復しつつあったことが窺がわれる。
 ところで、太平路と瑞金路との交差点、楊公井に有名な緑柳居という素菜店がある。この附近は日本人の居住区でもあった。写真によると実業百貨店の道路を挟んだ対面に「薬品ト写真材料」の看板が見える。いまでこそ写真は中国語でもあるが、当時は日本語だった。日本人を当て込んだ広告であろう。さて、緑柳居である。今ではいたるところに分店がある。写真で確認できないのは残念である。当時は緑柳居とは言ってはおらず、六朝居と呼ばれていた。回教徒による代表的清真菜館だ。南京には回教徒が多い。よって彼らに由来する茶館、菜館、また食品が少なくない。焼鴨、塩水鴨、板鴨、桶子鶏、四件、雑砕、豆腐干、臭豆腐、乾丝などの小吃すべて然りである。とくに七家湾ラーメンは天下に名高い。同じ牛肉麺でも蘭州などとはひと味もふた味も違う。しかし、七家湾一帯は再開発の嵐の中で、もうこの店もなくなった可能性が強い。
 この写真集はどこを繰っても興味が尽きない。新街口、玄武湖、桃葉渡、明孝陵、今の方がよほど整備されていて綺麗である。それでも俤は偲ばれる。ただ、周処読書台は全く違っている。私が二度にわたって訪ねた城南の高台とはまるで違う平坦地だ。大木に囲まれたかなり大きい屋敷が写っている。東南大学にいたOさんが
「じつは読書台はあそこではなく、別なところらしい」
ともらした言葉が頭をよぎった。
 最後にわざわざ送って下さった南京林業大のKさんに心からの謝意を表したい。(WT)
                
 

南京神社遺構 [民国残影]

 南京市内には江蘇省体育局管理下のスポーツ施設が集まっている『五台山』という小高い丘があります。
 ここの一画には江蘇体育賓館というホテルがあるのですが、裏手の永慶巷から通じる道は左右に杉並木があって、何だかどこかで見たことのあるようなデジャヴな違和感を覚えてしまうのです。

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 門をくぐって更に真っ直ぐ行くと、写真のような建物が現れますが、これは戦時中日本人によって建設された南京神社の社殿の遺構です。 (先ほどの杉並木の道は、その参道だったのです。)
 入口の両側には石獅子が鎮座していますが、嘗てあったであろう狛犬を彷彿させますネ。

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 途中の右手奥には写真の日本式家房があるのですが、恐らくこれは社務所の遺構でしょう。
 ものの資料によると当時境内には南京攻略戦の戦没者を祭る南京護国神社もあったそうですが、現在その跡地は不明です。

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 南京神社の御祭神は天照大神・明治天皇・国魂大神の合祀でしたが、他の占領地域に建立された神社でも特に太陽神である天照大神(アマテラスオオカミ)をお祭りするケースが多かった様です。
 もともと中国には老天爺など農耕的な宇宙神を祭る風習があったので、例えば日本武尊(ヤマトタケルノ命)みたいな民族性の強い神よりも中国の土壌に馴染みやすいのではという判断があったのかも知れません。

 これらの海外神社(特に満州や中国の占領地域に建立された神社)を管轄していたのは現地領事館が多く、ここ南京神社を管轄していたのも当時の南京領事館でした。
 やはり戦時期の海外神社は国策的要素の強いものが多かったのでありましょう。

 しかし、戦後ほとんどの神社が破壊された大陸中国のなかで、ここでは歴史的建築物として遺構を保存してくれていることに驚きを感じます。
 日本の皆さん、南京って結構奥深いところだと思いませんか?

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 尚、社殿遺構の近くには写真の『蒋中正(蒋介石)手植の樹』という石碑が立っています。
 何で蒋介石がここに記念樹を植えたのか理由は不明ですが、恐らくは国民政府は(台湾でもやったように)戦後は一部の神社を『忠烈祠』に作り変えていたからではないかと思います。
興味のある方は档案館などで是非調べてみて下さい。(A.K.)

クリスチャン・ジェネラルの生涯 [民国残影]

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 ある日のこと、馴染みの居酒屋に行こうと莫愁路でバスを降りると、停車場に隣接するキリスト教会の基礎部分に石碑が埋め込まれてあるのを見つけました。
 この教会はどうやら民国時代の1936年(南京攻略戦の約一年前)に『中華キリスト教会南京漢中堂』として建設されたもののようですが、聖書の一節と思われる文言が記されていました。 

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  「なぜならば、(私たちが)既によって立つその根底こそイエス・キリストだからです。」

 恐らくそんな意味になるのでしょうが、この文を揮ごうした馮玉祥(ふう ぎょくしょう)とは、民国時代の軍閥将軍だった人物。
 西北軍のイメージが強い馮ですが、南京でもこの教会の起工式に参加し、以後の布教活動にも積極的に関与しておりました。

 小生は馮玉祥が近代において果たした歴史的役割について興味をもっているのですが、ここで彼の人生とその時代について少し記してみたいと思います。

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 ①クリスチャン・ジェネラル:
 馮玉祥は両親の影響で清末期より軍籍にありましたが、若い頃から革命的なものに強い関心を抱いていました。
 民国期になるとキリスト教の洗礼を受けて入信に至るのですが、彼のイエス・キリスト観というのもまた「革命的」なもの。
 「イエスは大革命家である。 彼は貧しい者こそ福音が得られ、囚われている者こそ釈放され、縛られている者こそ自由になり得ると言った。 また、イエスは(ユダヤ)ファリサイ派が嘘を善としている事を大いに非難した。」 とまあ、こんな感じなのです。 

 馮の妥協嫌いな性格は晩年になればなるほど徹底してくるのですが、それは戦う精神としてキリスト教を学んできたからではないかとも思えます。
 なにしろ民国初期の頃から、彼の部隊全員にキリスト教の洗礼を受けさせ、兵営中に礼拝堂を設立し、日曜日になると牧師を呼んで部隊の中で礼拝・講義を行わせていたというのです。
 いつしか馮玉祥は人々から『基督将軍』(クリスチャン・ジェネラル)と呼ばれるようになりました。


②倒戈将軍(寝返り将軍):
 一方で馮玉祥は『倒戈将軍』(寝返り将軍)という、些か不名誉な称号もありました。 

 実際彼のやった事を見てみると、

 (1)1911年、武昌起義(辛亥革命)が勃発すると、これに呼応して所属していた清軍を裏切り、灤州で挙兵して北方軍政府を樹立。(但し、直ぐに鎮圧される。)

 (2)1915年、袁世凱が皇帝に即位しようとすると、やがてこれに反対する勢力により『護国戦争』が勃発します。 
 馮は袁世凱より討伐命令を受けて四川省へ赴きますが、敵の護国軍側と通じて停戦の密約を結び、逆に彼らの活動の支援を行いました。

 (3)1916年、袁世凱が死去すると、安徽派軍閥の段祺瑞が北京で権力を掌握。 翌年これに反対する孫文らが広東省広州で軍事政権を立ち上げると、北京VS広州の『護法戦争』が勃発します。 
 直隷派軍閥の一員であった馮玉祥は、段から孫文討伐命令を受けるのですが、湖南省まで進軍したところで停止。 
 広東から護法軍が北上すると安徽派の張敬堯を戦わせて、自分らはサボタージュして勢力を温存。 敵側だった孫文とも通じます。(後に曹錕・呉佩孚らは奉天派の張作霖と組んで安直戦争を起こし段祺瑞を下野させることに成功。)

 (4)1922年の第一次奉直戦争の時には、馮は直隷派として奉天派(張作霖派)と戦いました。 
 ところが、その後の処遇などを巡って曹錕・呉佩孚に不満を抱くと、1924年の第二次奉直戦争では北京でクーデター(北京政変)を起こして、曹錕を追放。 
 直隷派の領袖だった呉佩孚を敗退させると、孫文や敵だった張作霖、更には失脚していた段祺瑞まで招致して新政権を発足させます。

 (5)部下だった馮玉祥の裏切りにあった呉佩孚は怒り心頭。 今度は新政権側の張作霖や山東省の張宗昌と連合し、西北軍の馮の包囲網を形成します。
 馮は張作霖の部下・郭松齢を離反させて反撃(郭松齢事件)しますが失敗。

 (6)追い詰められた馮は一旦下野し、軍事視察と称してソ連に三か月ほど身を寄せます。 
 コミンテルンとの協議により中国国民党への加入を宣言した馮は、ソ連の後ろ盾を得て西北軍に復帰。 
ここで国民聯軍総司令就任と全軍の国民党加入を宣言します(五原誓師)。
 国民党軍による北伐が始まると、蒋介石と義兄弟の契りを結んでこれに参戦。
 やがて奉天軍閥の張学良が易幟(国民党に下る)して北伐は勝利に終わりました。

 (7)しかしその後、蒋介石が軍閥の軍縮を行おうとすると馮玉祥もこれに反発し、今度は山西軍閥の閻錫山などを巻き込んで都合三度に渡る『反蒋戦争』(1929-30年)を仕掛けます。
 ところがこれも結局失敗し、馮は自らの軍事基盤を失って一旦引退を余儀なくされました。


 とまあこんな感じで、自分のボスだった人間でも時と場合によっては平気で裏切っていたんですね。
 日本で言えば戦国時代みたいな権謀術数的な時代環境ではありましたが、寝返り将軍というのもクリスチャン・ジェネラルのもう一つの顔だったわけです。

 尚、この頃の中国軍閥間の内戦を俯瞰してみると、敵とした相手を追い落としたとしても命までとることはあまりやりませんでした。(部下の裏切りは別)
 その目的は政治上の主導権を握ることにあったので、戦争といっても謂わば選挙の代わりみたいなものでした。 (勿論巻き込まれる住民にとっては、たまったもんじゃありませんが・・・・。)


③ソ連や中国共産党との関係:
 さて反蒋戦争の後で馮玉祥を救ったのはまたしてもコミンテルンと、当時はまだその指揮下にあった中国共産党でした。
 恐らく再起のための武器や資金そして人員を提供することを条件に、抗日活動の先頭に立つよう馮に申し入れたのだと思います。

 1933年、馮が察哈爾(チャハル)民衆抗日同盟軍を設立して自ら総司令に就任し、満州国から長城を越えてきた関東軍とチャハルや熱河を巡っての攻防を行います。
 しかし、国民党軍と日本陸軍の間に塘沽停戦協定が成立すると、事態の収拾を計りたい蒋介石によって同盟軍は解散させられしまいます。
 馮はまたしても下野して泰山で隠居するのですが、引き続き在野から抗日を煽り続けました。 
 この『抗日』が馮の政界復帰への布石となったようで、1935年南京で軍事委員会副委員長として再起を果たします。
 江蘇省・浙江省を管轄する第3戦区司令官にも就任するのですが、日中戦争の事実上の引き金となった第二次上海事変が勃発すると蒋介石に指揮権を奪われて、湖北省第6戦区に転任。やがて編成変えを理由に前線指揮官からも外されてしまいました。
 蒋介石にとっては嘗て反蒋戦争を仕掛たうえ、聯共路線に傾いた馮玉祥を、やはり信頼が出来なかったのではと思います。

 さて、1945年日本が連合国に降伏すると、今度は国民党と共産党(蒋介石VS毛沢東)の間で対立が深まり、やがて国共内戦へと突入してゆきます。
 馮は在野から内戦回避を叫び続けますが、蒋介石はこれを無視。

 1947年にアメリカのニューヨークに渡った馮は、そこで『旅美中国和平民主聯盟』を組織して主席に就任。そこを拠点に停戦活動を展開します。

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 1948年、蒋介石は馮玉祥を国民党から除名し、アメリカ政府へも馮の追放を要請するに至りました。
 この時アメリカ政府は馮を懐柔しようとして、反共路線への転向を条件に武器・資金の提供を申し入れたようですが、馮はこれを拒否して帰国する決断をします。

 馮玉祥としてはかつて自分が本当に苦しい時に手を差し伸べてくれたソ連という国を非常に信頼していたのでしょうが、既にコミンテルンは解体され独裁者ヨシフ・スターリンの天下となっておりました。
 アメリカから帰国する際、馮はソ連船に乗って先ずはソ連邦内のオデッサ港に到着したのですが、ここで何故かその船が火災を起こすのです。 馮玉祥はこれに巻き込まれて死亡し66年の人生を終えました。 
 
こんなにタイミングで船火事が起こったことについて、小生などはどうも疑惑を感じてしまうのですが、仮にスターリンによる粛清と考えるなら腑に落ちるところがなくもありません。
 寝返り将軍といわれた馮が最後には信頼していたソ連に寝返えられた(?)とするならなんとも皮肉な話しですネ。

 尚、1953年馮玉祥の遺灰は中国共産党によって山東省泰山の麓に埋葬されております。(AK)





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