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南京民俗博物館 [歴史探訪]

南京民俗博物館(甘家旧宅)

今回訪ねたのは夫子廟にほど近い南京民俗博物館です。ここは、中国最大の民家と言われる甘一族(清朝以来の文人一家、音楽家一家として知られています)の邸宅を当時の姿を残しながら改造した清~民国期の民間文化の博物館です。館中には、甘家の部屋がそのまま残されているばかりでなく、刺繍、凧、独楽などの民間工芸品の店も集められ実演販売もされています。さらに、ここには演芸場もあり歌、伝統的コント、講談などが演じられています。

21日の午後私たちは地下鉄三山街駅に集合。うちそろってこの南京民俗博物館に向かいました。周りは1912地区と同じように新しく開発された歓楽街で、古式を模倣した建築のレストランやお店が並んでいます。その一角に博物館があるのです。

まずは、2時半からの演芸観賞からスタート。歌、コント、講談(何やら南京話についての話のようでした)を楽しみました。歌や話の内容はほとんど聞き取れませんでしたが、当時の演芸場(寄席と言ったほうがよいか)の雰囲気は、みなさん感じ取ったようです。
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皆さん当時の演芸場の雰囲気を感じ取ったようです

その後は、工芸品のお店を覗いてみたり、清~民国期の家庭用品の展示物を観賞したりして、5時に今日の予定は無事に終了しました。
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接客室と花嫁の輿

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舞台をバックに

項羽と虞姫 [歴史探訪]

前回の覇王祠の第二弾です。南京在住の日本人の先生からの投稿です。

項羽と虞姫

 南京からほぼ真北250km余のところに宿遷という市がある。市全体で人口530余万人、市区だけでも150万人の大都会である。むかし、ここは下相といい、秦末漢楚攻防時の西楚覇王項羽の故郷である。ちなみに漢の高祖劉邦の故郷は、この宿遷から北西180kmの徐州市沛県である。中国全図で見るかぎり、じつに隣町で、親指の腹におさまるほどの地域である。それだけ中国は広いという証明でもあるのだが、この、出自は異なるが、おなじような空をあおぎ、おなじような水をのみ、おなじような風景のなかで生まれ育った二人が天下を二分する英雄になるのだから歴史はおもしろい。
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 さて、この宿遷から南西方向へ直線距離にしておよそ90kmに霊璧県がある。項羽の愛人虞姫の故郷である。
 昨年の新学期早々に、項羽の終焉の地、安徽省和県の烏江にある西楚覇王祠をおとずれていらい、最後の決戦場となった垓下へ行くことが次の目標になった。垓下を地図でさがすうちに、近くに虞姫郷と記されてあるところを見つけた。虞姫の故郷であった。地図上では30kmほどの近さで、この二つの地を目の前にして夢がふくらんだ。
 宿遷から南へ60km、霊璧県から東へ70kmに泗洪県というところがある。ちょうど直角三角形の直角部分にあたる地点だ。この泗洪出身の学生F君に相談すると、国慶節連休に帰郷するから、いっしょに行きましょうと誘ってくれた。領土問題でさわがしいときで、大学当局からは外出を控えるように忠告されてもいたが、すぐにとびついた。泗洪は洪澤湖に面し、水産物の豊富な町だ。ちょうどモクズガニの季節でもある。

 大学近くの長距離バスターミナルから乗った泗洪行きのバスは、江蘇省にくびれこんだ安徽省天長市をまたぎ、淮安の盱眙県を走り、わずか1時間ほどで泗洪県にはいる。沿線はときおりトウモロコシ畑があるが、ずっと水田がつづいている。宿遷と淮安一帯は洪澤湖につながる川や沼が多く、江蘇省でも有数の穀倉地帯のようで、スーパーでも両市産の米袋をよく見かける。
 泗洪のバスターミナルに着いたのは夕方5時半、「水韻泗洪」のネオンサインがまず目に入る。
 泗洪、小さな街だと思っていたが、人口102万人の都会だ。東から南にかけて湖に囲まれているので水産資源が豊富で、とくに日本で上海ガニとよばれている泗洪大闸蟹は年間4万トン近くもとれるそうで、それゆえここは「蟹の里」ともいわれる。さらにここを有名にしているのは酒造業で、早くも唐代に「但聞酒香十里堤」と謡われ、民国時代には麹づくりがさかんで、今では93もの酒造会社があり、白酒だけで1500種以上、年生産39万トンを競っているという。蟹につづき、「名酒の里」「酒都」ともいわれている。泗洪に泊った3日間は毎晩この蟹と白酒のごちそうにあずかったのはいうまでもない。

 泗洪からおよそ1時間半で宿遷につく。バスターミナルで地図を買い、その地図をひろげながらマツダに10分ほどゆられて項王故里につく。京杭運河と古黄河にはさまれた広い公園の一角にある。古びたちいさな建物や閑寂なたたずまいを想像していたのだが、目の前に現れたのは勇壮な項羽の騎馬像と豪壮な楼閣だった。「中国歴史上唯一不以成敗論英雄的英雄」という句をよく見るが、敗者でありながら唯一の帝王として、司馬遷以来この国の人々に称賛されてきた様子がよくうかがえる。日本でもそうだが、今の学生にも項羽は人気がある。しかし、この項王故里、F君によれば、30憶元かけて新しく作られているというずいぶん大がかりなもので、彼は「税金のむだづかいだ。がっかりした」となんどもつぶやく。広い敷地の中に、まだ内装や設備などがととのっていない建物ばかりが多く、そのわりには見るべきものがすくない。とにかく早々に外に出る。入場券を買うにあたって、わたしのパスポートが数人の手にわたり念入りに点検確認されるなどということもいい印象をのこさなかった。
        
 古黄河公園を散策し、泗洪に帰ったのは7時過ぎだった。中秋の月が街を明るく照らしていた。大陸では月も大きく感じる。食卓には蟹にならんで龙虾(ざりがに)もあり、酒がいっそうすすんだ。

 10月1日、国慶節。いつもなら、テレビで国慶節行事を見ているところだが、早朝に出発し、安徽省の宿州行きのバスにのり、念願の虞姫郷と垓下へ向かう。霊璧で下車し、そこでバスかタクシー、あるいはマツダで虞姫郷へ行こうとの腹づもりだ。
 泗洪を出たバスは30分で安徽省の草廟鎮に入る。養蚕がさかんなのか桑畑がつづき、蚕室も建ちならんでいる。あとは一面のトウモロコシ畑である。
地図上では霊璧県のてまえに虞姫郷がある。1時間半ほど走っただろう、そろそろ霊璧県に近づくころで、このあたりが虞姫郷かもしれないと、地図をにらみつつ窓外を見ていると、とつぜん「虞姫文化園」の文字が目にとびこんだ。車掌に聞くと虞姫郷だという。これ幸いとバスを下ろしてもらう。
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文化園入口で虞姫墓はここかと聞くと受付嬢二人はそうだと言う。日本人だとわかり、親切にいろいろ教えてくれ、荷物も預かってくれる。宿遷の項王故里とはえらいちがいだ。園内に入ってすぐ右に碑廊があり、墓塚の維持修理についての碑文や文人による碑文が展示されている。入り口左に大きな円墳があり、虞姫墓と書かれている。清の光緒帝による碑もあり、また民国時代に重複修理をしたという碑もある。木立に囲まれた静かな墳墓だ。墓を背にしてすこし進むと虞姫の像が立っている。両手を腹の前にくみ、細目で遠くを見つめている。面長で口元がきりっとし、えりあしもすっきりとした像である。南京の莫愁湖の莫愁のようなほっそりとした柳腰ではなく、堂々とした姿勢でたくましさのようなものさえ感じる。騎馬にて戦場を駆けめぐった女性の強さだろうか。「漢兵已落地 四方楚歌声 大王意気尽 賎妾何聊生」の心意気が伝わってくる。像の前に虞姫享堂があり、修理中であったが、なかにはいると、虞姫のなきがらを抱く項羽のほこりにまみれた像があった。いわゆる覇王別姫像である。さきの美しい虞姫に出会ったせいか、じつにせつなく痛ましい。
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文化園は最近の発掘調査や研究の成果をふまえて、この地にあたらしく建築されたものだが、説明がていねいにされていて好感がもたれる。鴻門の会の緊迫した場面を蝋人形により再現したものまである。奥の広場には項羽と虞姫のふたりならんだ騎馬像があり、この種の像を見たことがないだけに、顔を見合わせる二人のすがたにねたましさを覚えるほどであった。
文化園を去るにあたり、受付嬢に垓下古戦場のこと、その行きかたを訊ねる。彼女たちはここが垓下だとさかんに言う。地図にはここよりさらに南の固鎮県境に垓下古戦場の文字があり、それを指し示しても、両手を大きくまわしながら、ここだと力説する。あとでわかったことだが、垓下古戦場は専門家の間でも意見が分かれ、なかなか特定できず、また霊璧県と固鎮県のあいだでも政治的な陣取り合戦があるようだ。いずれにしろこの辺一帯が壮絶な戦いの場であったのだろう。彼女たちは、それでも行き方を教えてくれ、さらになんと霊璧県行きの市内バスまで呼んでくれた。まもなく、バスは停留所ならぬ文化園まで、われわれのためにやって来た。彼女たちの好意に深く感謝し、その場を辞した。
町で昼食をとったのち、バスで小一時間の韋集鎮へ行く。着いたところはほこりっぽいいなか町だ。そこでマツダにのりかえ、周囲にトウモロコシ畑の広がる農道を走ることおよそ30分、垓下遺址のある町についた。
大きな現代的な項羽像の前で、マツダを下り、教えられたでこぼこの農道を行く。両側はトウモロコシ畑で奥に数軒の家が見える。大きな自然石に子どもがのぼって遊んでいる。よく見ると、垓下遺址と書いてある。ガイドブックなどに出てくるものとは違う。さらに進むと道のわきの小高いところに「垓下遺址」と書かれた石碑がある。よく見かけるものだ。近づいて文字を読む。「垓下遺址 安徽省人民政府 一九八六年七月三日公布 固鎮県人民政府立」とある。道の反対側に紹介の看板があり、それにも「垓下遺址 固鎮県濠城鎮」とある。文化園でもらったパンフレットには、垓下遺址は霊璧県韋集鎮内とあり、地図上でも古戦場のマークは霊璧県にある。いったいここはどこだ。石碑が動いたのか。
しかしこれはすべて後で気づいたことで、そのときはてっきり固鎮県にいると思っていた。発掘調査のあとの出土品が固鎮県の博物館にあると、その場にいた村人に教えられたこともそう思わせたのかもしれないが、ついでにここはどこかと聞けばよかった。ともかく、文化園の受付嬢がどうしてあんなにがんばっていたのかという謎の一端がとけた気がする。
発掘調査の説明看板によると、むかしはこのあたりは地勢が高く周囲は掘割のように河がめぐっていたらしい。天然の要害である。垓下という地名は虞姫郷のあたりから固鎮にかけての広い範囲を指していたようで、この遺址はその核心部のようだ。
マツダに乗り、韋集へもどり、さらにバスで霊璧へ行き、そして泗洪に帰った。その夜は山東省青島のワタリガニも食卓にのぼり、海と河のじつにぜいたくな晩餐になった。(K)

烏江覇王祠 [歴史探訪]

力拔山兮气盖世。
时不利兮骓不逝。
骓不逝兮可奈何!
虞兮虞兮奈若何!

蘇北(江蘇省北部)と安徽省北部には漢楚戦争に関わる遺跡が多い。南京にほど近い烏(鳥じゃないよ!)江覇王祠もその一つだ。ここは西楚覇王項羽自刎の地である。最後の一時、項羽はやはり虞美人のことを思ったのだろうか。

烏江という鎮(町)は実は二つある。一つは南京市の烏江でもう一つは安徽省和県の烏江である。この二つの町は烏江(地名のもとになった川)を挟んで向かい合っているが、事実上一体化して「烏江」という町になっていると考えたほうがよい。ただし、覇王祠があるのは和県のほうの烏江である。

さて、行き方である。二つのルートがある。一つは、雨花台のバスセンターから長江トンネルを経て対岸に渡るバスルート(雨烏線)であり、もう一つは、長江大橋を渡ってすぐの橋北バスセンターからのルート(和県行バスで途中下車)である。筆者は後者のルートで烏江に行き、前者のルートで南京に戻った。

橋北バスセンターを出発したバスはひたすら浦口開発区の中を行く。浦口開発区は長江に沿って南へ南へと開発が進んでいるので、そこを通る道も立派だ。開発区を過ぎた後ようやく農村らしくなり、しばらくすると和県側の烏江のバス停に着く。そこは町はずれでバス停の標識もない。運転手が「着いたぞ」というだけだ。15分ぐらい歩いて烏江の中心街(のようなもの)に着く。埃っぽいまったくのど田舎の鎮である。東西に伸びた長ひょろい中心街を東に向かって行くと、街並みが途絶えたところに覇王祠の第一鳥居がある。

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ここから参道となる。舗装道路をひたすら歩くだけ。道の左手は工場地帯、右手には農村風景が広がる。水牛が所在無げにボンヤリとたたずんでいた。

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その水田のど真ん中に突然立派な建物が現れる。覇王祠公園の入り口だ。門をくぐって奥のほうへ行くとすぐに覇王祠が。

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本殿には項羽の雄姿。ぐっと大地を踏みしめ、力だけを信じた男の気迫がみなぎっている。自ら首を刎ねようとしている敗北者の姿ではない。
                    
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本殿の裏手には文革期に破壊されて再建された項羽の墓が。石馬や石人が両側に並び、敗北したとはいえ完全に「帝王」扱いだ。

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しばらく静かで整頓された公園の中を散歩してみた。ほとんど客はいない。ピンクの花が目立っていた。この時期に咲く花とは。項羽や虞美人と縁がある花なのだろうか。
                    
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帰りも参道をそぞろ歩きして中心街を通り、対岸の南京側にあるバスセンターに向かった。バスは長江に沿って浦口開発区を通り長江トンネルに入る。
区境の長いトンネルを抜けると未来都市だった。(HN)

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高杉晋作と太平天国の乱 [歴史探訪]

 幕末の英雄、長州の高杉晋作は文久二年(1862年)、幕府随行員として長崎から上海に渡りました。
 この時高杉が見聞した内容は彼の『遊清五録』という日誌に残されていますが、清国が欧米の植民地になりつつあることに衝撃を受けたようでした。
 後に尊皇攘夷に身を投じる高杉ですが、下関での四カ国艦隊との戦争においては藩より和議交渉を任されました。
 その際、連合国側の要求の一つに領内にある関門海峡の要所・彦島の租借が含まれておりましたが、この点のみは頑として拒み結局要求を取り下げさせることに成功したのでした。
 この時、領土の租借がやがて植民地化に繋がることを高杉が見抜いていなければ、もしかしたら明治期の日本も末期の清国のように欧米列強に分割されてしまったのかも知れません。

 さて、幕府一行の船が上海・呉淞江に到着した5月6日のこと、高杉は『長髪賊』と『支那人』がこの地で戦ったということを聞き及びます。そして、翌7日には陸上で小銃の音が轟いているのを耳にしました。 一行はこれが長毛賊と支那人が戦っているものと知ります。 時はまさに『太平天国の乱』の時代でした。
 ここでいう支那人とは、曾国藩の湘軍や李鴻章の淮軍などの清朝側の兵士ではなく、上海租界に住んでいたアメリカ人フレデリック・タウンゼント・ウォードたちが中国兵を雇用してつくった自衛軍『洋槍隊』(後に『常勝軍』)のことを意味していると思われます。
 一方の長髪賊(長毛賊)とは、太平天国軍の兵士たちを意味しますが、彼らは頭部前半を剃って辮髪を結うという、言わば満州族王朝である清朝が漢族を服従させるために押し付けたヘアースタイルに対し、意図的に髪を伸ばして反抗の意思を表わしていたのでした。

 高杉は太平天国の乱の戦闘を見れるかも知れないということに大変興奮していたようですが、渡航前から体調を崩していたためか、または幕府随行員という立場のためか、実際の戦闘の詳細については遊清五録には記されていません。
 ただ、この史上最大の内戦のさなかの中国の空気というものは、若き高杉にとって病魔を押しのけて余るほどのカンフル剤でした。
 まるで安政の大獄で処刑された亡き師・吉田松陰の植えた種が開花したかのように帰国後は尊皇攘夷運動に突き進む高杉ですが、その『肥料』の一つが太平天国の乱だったのかも知れませんネ。

 尚、5月13日(日)の第9回南京探訪で訪問する『瞻園』は太平天国歴史博物館を兼ねています。
 よろしければ、この機会に太平天国の乱について学んでみませんか。(A.K.)


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