歴史の証言-四人組打倒のその時期に [現代中国]

歴史の証言-四人組打倒のその時期に

筆者の鈴木征四郎氏はながらく出版・編集の世界で日中友好の事業に取り組み、定年後南京にて日本語教師をしてきた。1976年10月の四人組打倒のその日にも中国を訪問しており、そのリアルな実態を目にしている。以下の文章は、原文は南京農業大学の雑誌『寂静之声』(昨年5月刊)に寄稿された中国語であるが、筆者の許可を得て編者が日本語に訳したものである。

1976年10月、私は「日本出版業界日中友好編集者会」訪中代表団の副秘書長として、はじめて上海と南京を訪れた。
10月8日、上海虹橋空港に降り立った後、私たちは中国国際旅行社の車で外灘にある和平飯店へと向った。途中の街々には数多くの「大字報」が貼られていた。一年前(1975年4~5月)、私ははじめて中国(北京と東北地区)を訪問していたので、大字報というものをどう読んだらいいのかわかっていた。その後、上海市内を参観し、また上海文化聯合会との座談会に参加した時にも、特別な変化というものを感じなかった。
11日、上海から列車で5時間半かけて南京へと向い、その後、南京飯店で江蘇省出版局の責任者など6人のスタッフと熱のこもった交流と討論を行なった。私たちは南京飯店に三日宿泊し、午前中には長江路小学校、省中医病院、市民市場(新街口)そして完成したばかりの長江大橋を参観した。その時、「長江大橋の建設にあたってはいかに自力更生でこれを進めたか」などという解説を受けた(今でもその時いただいた大橋の記念絵葉書を手元に残している)。私たちは事前に、日本で言うところの「南京虐殺」の現場を参観し追悼したいと申し入れていたが、許可は得られなかった。午後には、玄武湖、動物園、中山陵、明孝陵、霊谷寺などの名所を遊覧した。そして、夜には解放軍の招待所で紅小兵の演ずるプログラムを観賞した。
この年、周恩来総理、毛沢東主席が相継いで亡くなったので、南京の街でも数多くの追悼のスローガンや大字報が見られた。例えば、「偉大なる領袖・導き手毛沢東主席は永久不滅である。毛主席は永遠に我々の心の中にいる」、「悲しみを力に変えよう。毛主席の遺志を受け継ぎ革命事業を徹底的に推し進めよう」「世に難事はない。ただ登りつめる意志がありさえすれば」などである。
ガイドの紹介によると当時の南京の人口は300万人前後だったそうである。中心街には高層ビルはなく、道行く車も少なかった。私は、南京は比較的閑静な都市であると感じた。当然空気も澄んでいた。
14日になって、私たちはまた汽車で鄭州-安陽・林県-北京へと向った。鄭州市内で、私は、街中に以前とは異なる変化が起こっていることに気付いた。数多くの大字報には「うれしい」、「喜ばしい」、「間もなく夜明けだ」などの文字が現われたのである。そして、その大字報を見る人たちの表情にも喜びが溢れていた。
私はただちに団長に報告した後、北京駐在の日本の各新聞社の友人の記者に電話し「いったい中国ではどんな事件が発生したのか」と尋ねた。その時の彼らの返答は「『四人組』が打倒された。文革は終わった。あなたがたは旅程を変更してすぐに首都に来るべきだろう。とても興味深い」というものだった。後に、代表団に同行していた通訳もこのことを認めたのである。
北京に着いた時には、私たち自身も関係者や市民がたいへん喜んでいるのを見て取った。私たちの帰国の数日前には、天安門広場で「四人組打倒を祝う100万人パレード」が行なわれた。当然私たちもそれに参加した。人々は自分たちで作った三角形の小旗を我々外国人にくれた。私は今でも二つのその小旗を手元に残している。参加者たちはドラや太鼓を打ち鳴らし、笛を吹き、旗を振り、歌を歌い、狂喜乱舞していた。非常に賑やかな光景だった。
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2001年の定年後の2003年2月、私は久しく訪れることのなかった南京にまたやって来た。そして、日本語教師としてこの地で9年間あまりを過ごしたのである。
このごろ私は、10月になるたびに、当時の南京でも多くの市民が新街口、解放路、中山路などでドラや太鼓を打ち鳴らし、歌い踊ったのだろうと想像するのである。(鈴木征四郎。訳N・H)

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