南京旧影 [民国残影]

南京旧影
  
 一度でも南京に住んだことのある人は、ここかしこに重畳として存在する歴史に圧倒される。むろん、その間に栄枯盛衰があり、唐時代は荒廃に沈淪した。しかし十の王朝がここを都にした。こんな街は中国広といえども外にない。ここにたまたま縁あった自分の僥倖を誰に感謝したらいいのだろう。
 過日、南京林業大学のKさんより『南京旧影―老明信片―』(南京出版社)を恵贈された。どこを見ても古き良き時代の南京を彷彿とさせる絵葉書の集大成である。座右に置いて何度も繰ってみる。三〇年代の南京の顔だ。日本軍による破壊写真には胸が痛む。
 龍盤虎踞、六朝煙水、故都遺痕、府衙旧跡、科場学府、陵墓魅影、梵宮刹宇、市井百態、金陵万象、南京人、後記の章立て。そのほとんどは足跡を印したが、それでもかなわぬところがある。韓信点将台があったなどとは思いもしなかった。すでに隠滅の彼方だ。
 李白は詠う。
  鳳凰台上鳳凰遊
  鳳去台空江自流
  呉官花草埋幽径
  晋代衣冠成古丘
  三山半落青天外
  二水中分白鷺洲
  総為浮雲能蔽日
  長安不見使人愁
 ごらんのとおり、唐代には孫呉の栄華も今いずこ、鳳凰台には、その礎台がわずかに残るだけだった。劉禹錫も詠う。
  朱雀橋辺野草花
  烏衣巷口夕陽斜
  旧時王謝堂前燕
  飛入尋常百姓家
 かつての権貴、王導・謝安の住んだ屋敷の後には、百姓の家が空しく甍を連ね、燕が巣を作るのみである。この南京が栄華を取り戻すのは、南唐、宋以降、とくに明・清時代だ。しかしその栄華も長髪族の乱で灰燼に帰した。当面の三〇年代は国民政府の首都、国都の威容を整えた。この写真集には南京の細部が活写されている。秦淮の画舫、夫子廟の殷賑。先にも紹介した井上紅梅の孤本『支那各地風俗叢談』(大正一三年)に南京の菜館が紹介してある。
  前にも言った通り南京の菜館は料理に於いて格別の特色もないが、多くは川沿いにあるので景色がよく画舫に乗るのに便利である。その重なるものは金陵春、第一春、海洞春、万家春、問柳、長松、第一旅館、万全、六朝春などで、午前中は茶館を開く店もある。又小料理で一寸した店は旧王府の奇斎、嘉賓楼、貢院西街の小楽意、六味斎などであるがこれとても格別特色のあるうまい物を食わせるわけでもない。只小取廻しで便利だといふので一寸腹塞ぎに入る。要するに南京にはうまい物無しだ。

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老舗が集まる夫子廟地区

 今日においてもこれらの屋号を引き継ぐ店は絶えて一つもない。清末の永和園はさすがに古いが、晩晴楼はさほど老舗とは思えない。「南京にうまい物なし」は井上の味覚の話であって、実際は茶館、菜館が多くの人を誘引した。しかし、どこかにひとつぐらい菜館の名を留めていてほしかった。ところがこの写真集には一枝春が出てくる。この菜館は総二階でかなりの店構えだ。隣には大新照相という写場、そのとなりが夫子廟首都大劇院、その隣が大三元酒業社と読める。街並みははるかに続き、大衣を着た老百姓、荷車を曳くひと、自動車も見える。落ち着いた街のにぎわいだ。おそらく日本軍入城後の昭和十三年の春のころであろう。秩序が回復しつつあったことが窺がわれる。
 ところで、太平路と瑞金路との交差点、楊公井に有名な緑柳居という素菜店がある。この附近は日本人の居住区でもあった。写真によると実業百貨店の道路を挟んだ対面に「薬品ト写真材料」の看板が見える。いまでこそ写真は中国語でもあるが、当時は日本語だった。日本人を当て込んだ広告であろう。さて、緑柳居である。今ではいたるところに分店がある。写真で確認できないのは残念である。当時は緑柳居とは言ってはおらず、六朝居と呼ばれていた。回教徒による代表的清真菜館だ。南京には回教徒が多い。よって彼らに由来する茶館、菜館、また食品が少なくない。焼鴨、塩水鴨、板鴨、桶子鶏、四件、雑砕、豆腐干、臭豆腐、乾丝などの小吃すべて然りである。とくに七家湾ラーメンは天下に名高い。同じ牛肉麺でも蘭州などとはひと味もふた味も違う。しかし、七家湾一帯は再開発の嵐の中で、もうこの店もなくなった可能性が強い。
 この写真集はどこを繰っても興味が尽きない。新街口、玄武湖、桃葉渡、明孝陵、今の方がよほど整備されていて綺麗である。それでも俤は偲ばれる。ただ、周処読書台は全く違っている。私が二度にわたって訪ねた城南の高台とはまるで違う平坦地だ。大木に囲まれたかなり大きい屋敷が写っている。東南大学にいたOさんが
「じつは読書台はあそこではなく、別なところらしい」
ともらした言葉が頭をよぎった。
 最後にわざわざ送って下さった南京林業大のKさんに心からの謝意を表したい。(WT)
                
 

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