クリスチャン・ジェネラルの生涯 [民国残影]
ある日のこと、馴染みの居酒屋に行こうと莫愁路でバスを降りると、停車場に隣接するキリスト教会の基礎部分に石碑が埋め込まれてあるのを見つけました。
この教会はどうやら民国時代の1936年(南京攻略戦の約一年前)に『中華キリスト教会南京漢中堂』として建設されたもののようですが、聖書の一節と思われる文言が記されていました。
「なぜならば、(私たちが)既によって立つその根底こそイエス・キリストだからです。」
恐らくそんな意味になるのでしょうが、この文を揮ごうした馮玉祥(ふう ぎょくしょう)とは、民国時代の軍閥将軍だった人物。
西北軍のイメージが強い馮ですが、南京でもこの教会の起工式に参加し、以後の布教活動にも積極的に関与しておりました。
小生は馮玉祥が近代において果たした歴史的役割について興味をもっているのですが、ここで彼の人生とその時代について少し記してみたいと思います。
①クリスチャン・ジェネラル:
馮玉祥は両親の影響で清末期より軍籍にありましたが、若い頃から革命的なものに強い関心を抱いていました。
民国期になるとキリスト教の洗礼を受けて入信に至るのですが、彼のイエス・キリスト観というのもまた「革命的」なもの。
「イエスは大革命家である。 彼は貧しい者こそ福音が得られ、囚われている者こそ釈放され、縛られている者こそ自由になり得ると言った。 また、イエスは(ユダヤ)ファリサイ派が嘘を善としている事を大いに非難した。」 とまあ、こんな感じなのです。
馮の妥協嫌いな性格は晩年になればなるほど徹底してくるのですが、それは戦う精神としてキリスト教を学んできたからではないかとも思えます。
なにしろ民国初期の頃から、彼の部隊全員にキリスト教の洗礼を受けさせ、兵営中に礼拝堂を設立し、日曜日になると牧師を呼んで部隊の中で礼拝・講義を行わせていたというのです。
いつしか馮玉祥は人々から『基督将軍』(クリスチャン・ジェネラル)と呼ばれるようになりました。
②倒戈将軍(寝返り将軍):
一方で馮玉祥は『倒戈将軍』(寝返り将軍)という、些か不名誉な称号もありました。
実際彼のやった事を見てみると、
(1)1911年、武昌起義(辛亥革命)が勃発すると、これに呼応して所属していた清軍を裏切り、灤州で挙兵して北方軍政府を樹立。(但し、直ぐに鎮圧される。)
(2)1915年、袁世凱が皇帝に即位しようとすると、やがてこれに反対する勢力により『護国戦争』が勃発します。
馮は袁世凱より討伐命令を受けて四川省へ赴きますが、敵の護国軍側と通じて停戦の密約を結び、逆に彼らの活動の支援を行いました。
(3)1916年、袁世凱が死去すると、安徽派軍閥の段祺瑞が北京で権力を掌握。 翌年これに反対する孫文らが広東省広州で軍事政権を立ち上げると、北京VS広州の『護法戦争』が勃発します。
直隷派軍閥の一員であった馮玉祥は、段から孫文討伐命令を受けるのですが、湖南省まで進軍したところで停止。
広東から護法軍が北上すると安徽派の張敬堯を戦わせて、自分らはサボタージュして勢力を温存。 敵側だった孫文とも通じます。(後に曹錕・呉佩孚らは奉天派の張作霖と組んで安直戦争を起こし段祺瑞を下野させることに成功。)
(4)1922年の第一次奉直戦争の時には、馮は直隷派として奉天派(張作霖派)と戦いました。
ところが、その後の処遇などを巡って曹錕・呉佩孚に不満を抱くと、1924年の第二次奉直戦争では北京でクーデター(北京政変)を起こして、曹錕を追放。
直隷派の領袖だった呉佩孚を敗退させると、孫文や敵だった張作霖、更には失脚していた段祺瑞まで招致して新政権を発足させます。
(5)部下だった馮玉祥の裏切りにあった呉佩孚は怒り心頭。 今度は新政権側の張作霖や山東省の張宗昌と連合し、西北軍の馮の包囲網を形成します。
馮は張作霖の部下・郭松齢を離反させて反撃(郭松齢事件)しますが失敗。
(6)追い詰められた馮は一旦下野し、軍事視察と称してソ連に三か月ほど身を寄せます。
コミンテルンとの協議により中国国民党への加入を宣言した馮は、ソ連の後ろ盾を得て西北軍に復帰。
ここで国民聯軍総司令就任と全軍の国民党加入を宣言します(五原誓師)。
国民党軍による北伐が始まると、蒋介石と義兄弟の契りを結んでこれに参戦。
やがて奉天軍閥の張学良が易幟(国民党に下る)して北伐は勝利に終わりました。
(7)しかしその後、蒋介石が軍閥の軍縮を行おうとすると馮玉祥もこれに反発し、今度は山西軍閥の閻錫山などを巻き込んで都合三度に渡る『反蒋戦争』(1929-30年)を仕掛けます。
ところがこれも結局失敗し、馮は自らの軍事基盤を失って一旦引退を余儀なくされました。
とまあこんな感じで、自分のボスだった人間でも時と場合によっては平気で裏切っていたんですね。
日本で言えば戦国時代みたいな権謀術数的な時代環境ではありましたが、寝返り将軍というのもクリスチャン・ジェネラルのもう一つの顔だったわけです。
尚、この頃の中国軍閥間の内戦を俯瞰してみると、敵とした相手を追い落としたとしても命までとることはあまりやりませんでした。(部下の裏切りは別)
その目的は政治上の主導権を握ることにあったので、戦争といっても謂わば選挙の代わりみたいなものでした。 (勿論巻き込まれる住民にとっては、たまったもんじゃありませんが・・・・。)
③ソ連や中国共産党との関係:
さて反蒋戦争の後で馮玉祥を救ったのはまたしてもコミンテルンと、当時はまだその指揮下にあった中国共産党でした。
恐らく再起のための武器や資金そして人員を提供することを条件に、抗日活動の先頭に立つよう馮に申し入れたのだと思います。
1933年、馮が察哈爾(チャハル)民衆抗日同盟軍を設立して自ら総司令に就任し、満州国から長城を越えてきた関東軍とチャハルや熱河を巡っての攻防を行います。
しかし、国民党軍と日本陸軍の間に塘沽停戦協定が成立すると、事態の収拾を計りたい蒋介石によって同盟軍は解散させられしまいます。
馮はまたしても下野して泰山で隠居するのですが、引き続き在野から抗日を煽り続けました。
この『抗日』が馮の政界復帰への布石となったようで、1935年南京で軍事委員会副委員長として再起を果たします。
江蘇省・浙江省を管轄する第3戦区司令官にも就任するのですが、日中戦争の事実上の引き金となった第二次上海事変が勃発すると蒋介石に指揮権を奪われて、湖北省第6戦区に転任。やがて編成変えを理由に前線指揮官からも外されてしまいました。
蒋介石にとっては嘗て反蒋戦争を仕掛たうえ、聯共路線に傾いた馮玉祥を、やはり信頼が出来なかったのではと思います。
さて、1945年日本が連合国に降伏すると、今度は国民党と共産党(蒋介石VS毛沢東)の間で対立が深まり、やがて国共内戦へと突入してゆきます。
馮は在野から内戦回避を叫び続けますが、蒋介石はこれを無視。
1947年にアメリカのニューヨークに渡った馮は、そこで『旅美中国和平民主聯盟』を組織して主席に就任。そこを拠点に停戦活動を展開します。
1948年、蒋介石は馮玉祥を国民党から除名し、アメリカ政府へも馮の追放を要請するに至りました。
この時アメリカ政府は馮を懐柔しようとして、反共路線への転向を条件に武器・資金の提供を申し入れたようですが、馮はこれを拒否して帰国する決断をします。
馮玉祥としてはかつて自分が本当に苦しい時に手を差し伸べてくれたソ連という国を非常に信頼していたのでしょうが、既にコミンテルンは解体され独裁者ヨシフ・スターリンの天下となっておりました。
アメリカから帰国する際、馮はソ連船に乗って先ずはソ連邦内のオデッサ港に到着したのですが、ここで何故かその船が火災を起こすのです。 馮玉祥はこれに巻き込まれて死亡し66年の人生を終えました。
こんなにタイミングで船火事が起こったことについて、小生などはどうも疑惑を感じてしまうのですが、仮にスターリンによる粛清と考えるなら腑に落ちるところがなくもありません。
寝返り将軍といわれた馮が最後には信頼していたソ連に寝返えられた(?)とするならなんとも皮肉な話しですネ。
尚、1953年馮玉祥の遺灰は中国共産党によって山東省泰山の麓に埋葬されております。(AK)
2012-04-19 13:55
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