項羽と虞姫 [歴史探訪]

前回の覇王祠の第二弾です。南京在住の日本人の先生からの投稿です。

項羽と虞姫

 南京からほぼ真北250km余のところに宿遷という市がある。市全体で人口530余万人、市区だけでも150万人の大都会である。むかし、ここは下相といい、秦末漢楚攻防時の西楚覇王項羽の故郷である。ちなみに漢の高祖劉邦の故郷は、この宿遷から北西180kmの徐州市沛県である。中国全図で見るかぎり、じつに隣町で、親指の腹におさまるほどの地域である。それだけ中国は広いという証明でもあるのだが、この、出自は異なるが、おなじような空をあおぎ、おなじような水をのみ、おなじような風景のなかで生まれ育った二人が天下を二分する英雄になるのだから歴史はおもしろい。
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 さて、この宿遷から南西方向へ直線距離にしておよそ90kmに霊璧県がある。項羽の愛人虞姫の故郷である。
 昨年の新学期早々に、項羽の終焉の地、安徽省和県の烏江にある西楚覇王祠をおとずれていらい、最後の決戦場となった垓下へ行くことが次の目標になった。垓下を地図でさがすうちに、近くに虞姫郷と記されてあるところを見つけた。虞姫の故郷であった。地図上では30kmほどの近さで、この二つの地を目の前にして夢がふくらんだ。
 宿遷から南へ60km、霊璧県から東へ70kmに泗洪県というところがある。ちょうど直角三角形の直角部分にあたる地点だ。この泗洪出身の学生F君に相談すると、国慶節連休に帰郷するから、いっしょに行きましょうと誘ってくれた。領土問題でさわがしいときで、大学当局からは外出を控えるように忠告されてもいたが、すぐにとびついた。泗洪は洪澤湖に面し、水産物の豊富な町だ。ちょうどモクズガニの季節でもある。

 大学近くの長距離バスターミナルから乗った泗洪行きのバスは、江蘇省にくびれこんだ安徽省天長市をまたぎ、淮安の盱眙県を走り、わずか1時間ほどで泗洪県にはいる。沿線はときおりトウモロコシ畑があるが、ずっと水田がつづいている。宿遷と淮安一帯は洪澤湖につながる川や沼が多く、江蘇省でも有数の穀倉地帯のようで、スーパーでも両市産の米袋をよく見かける。
 泗洪のバスターミナルに着いたのは夕方5時半、「水韻泗洪」のネオンサインがまず目に入る。
 泗洪、小さな街だと思っていたが、人口102万人の都会だ。東から南にかけて湖に囲まれているので水産資源が豊富で、とくに日本で上海ガニとよばれている泗洪大闸蟹は年間4万トン近くもとれるそうで、それゆえここは「蟹の里」ともいわれる。さらにここを有名にしているのは酒造業で、早くも唐代に「但聞酒香十里堤」と謡われ、民国時代には麹づくりがさかんで、今では93もの酒造会社があり、白酒だけで1500種以上、年生産39万トンを競っているという。蟹につづき、「名酒の里」「酒都」ともいわれている。泗洪に泊った3日間は毎晩この蟹と白酒のごちそうにあずかったのはいうまでもない。

 泗洪からおよそ1時間半で宿遷につく。バスターミナルで地図を買い、その地図をひろげながらマツダに10分ほどゆられて項王故里につく。京杭運河と古黄河にはさまれた広い公園の一角にある。古びたちいさな建物や閑寂なたたずまいを想像していたのだが、目の前に現れたのは勇壮な項羽の騎馬像と豪壮な楼閣だった。「中国歴史上唯一不以成敗論英雄的英雄」という句をよく見るが、敗者でありながら唯一の帝王として、司馬遷以来この国の人々に称賛されてきた様子がよくうかがえる。日本でもそうだが、今の学生にも項羽は人気がある。しかし、この項王故里、F君によれば、30憶元かけて新しく作られているというずいぶん大がかりなもので、彼は「税金のむだづかいだ。がっかりした」となんどもつぶやく。広い敷地の中に、まだ内装や設備などがととのっていない建物ばかりが多く、そのわりには見るべきものがすくない。とにかく早々に外に出る。入場券を買うにあたって、わたしのパスポートが数人の手にわたり念入りに点検確認されるなどということもいい印象をのこさなかった。
        
 古黄河公園を散策し、泗洪に帰ったのは7時過ぎだった。中秋の月が街を明るく照らしていた。大陸では月も大きく感じる。食卓には蟹にならんで龙虾(ざりがに)もあり、酒がいっそうすすんだ。

 10月1日、国慶節。いつもなら、テレビで国慶節行事を見ているところだが、早朝に出発し、安徽省の宿州行きのバスにのり、念願の虞姫郷と垓下へ向かう。霊璧で下車し、そこでバスかタクシー、あるいはマツダで虞姫郷へ行こうとの腹づもりだ。
 泗洪を出たバスは30分で安徽省の草廟鎮に入る。養蚕がさかんなのか桑畑がつづき、蚕室も建ちならんでいる。あとは一面のトウモロコシ畑である。
地図上では霊璧県のてまえに虞姫郷がある。1時間半ほど走っただろう、そろそろ霊璧県に近づくころで、このあたりが虞姫郷かもしれないと、地図をにらみつつ窓外を見ていると、とつぜん「虞姫文化園」の文字が目にとびこんだ。車掌に聞くと虞姫郷だという。これ幸いとバスを下ろしてもらう。
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文化園入口で虞姫墓はここかと聞くと受付嬢二人はそうだと言う。日本人だとわかり、親切にいろいろ教えてくれ、荷物も預かってくれる。宿遷の項王故里とはえらいちがいだ。園内に入ってすぐ右に碑廊があり、墓塚の維持修理についての碑文や文人による碑文が展示されている。入り口左に大きな円墳があり、虞姫墓と書かれている。清の光緒帝による碑もあり、また民国時代に重複修理をしたという碑もある。木立に囲まれた静かな墳墓だ。墓を背にしてすこし進むと虞姫の像が立っている。両手を腹の前にくみ、細目で遠くを見つめている。面長で口元がきりっとし、えりあしもすっきりとした像である。南京の莫愁湖の莫愁のようなほっそりとした柳腰ではなく、堂々とした姿勢でたくましさのようなものさえ感じる。騎馬にて戦場を駆けめぐった女性の強さだろうか。「漢兵已落地 四方楚歌声 大王意気尽 賎妾何聊生」の心意気が伝わってくる。像の前に虞姫享堂があり、修理中であったが、なかにはいると、虞姫のなきがらを抱く項羽のほこりにまみれた像があった。いわゆる覇王別姫像である。さきの美しい虞姫に出会ったせいか、じつにせつなく痛ましい。
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文化園は最近の発掘調査や研究の成果をふまえて、この地にあたらしく建築されたものだが、説明がていねいにされていて好感がもたれる。鴻門の会の緊迫した場面を蝋人形により再現したものまである。奥の広場には項羽と虞姫のふたりならんだ騎馬像があり、この種の像を見たことがないだけに、顔を見合わせる二人のすがたにねたましさを覚えるほどであった。
文化園を去るにあたり、受付嬢に垓下古戦場のこと、その行きかたを訊ねる。彼女たちはここが垓下だとさかんに言う。地図にはここよりさらに南の固鎮県境に垓下古戦場の文字があり、それを指し示しても、両手を大きくまわしながら、ここだと力説する。あとでわかったことだが、垓下古戦場は専門家の間でも意見が分かれ、なかなか特定できず、また霊璧県と固鎮県のあいだでも政治的な陣取り合戦があるようだ。いずれにしろこの辺一帯が壮絶な戦いの場であったのだろう。彼女たちは、それでも行き方を教えてくれ、さらになんと霊璧県行きの市内バスまで呼んでくれた。まもなく、バスは停留所ならぬ文化園まで、われわれのためにやって来た。彼女たちの好意に深く感謝し、その場を辞した。
町で昼食をとったのち、バスで小一時間の韋集鎮へ行く。着いたところはほこりっぽいいなか町だ。そこでマツダにのりかえ、周囲にトウモロコシ畑の広がる農道を走ることおよそ30分、垓下遺址のある町についた。
大きな現代的な項羽像の前で、マツダを下り、教えられたでこぼこの農道を行く。両側はトウモロコシ畑で奥に数軒の家が見える。大きな自然石に子どもがのぼって遊んでいる。よく見ると、垓下遺址と書いてある。ガイドブックなどに出てくるものとは違う。さらに進むと道のわきの小高いところに「垓下遺址」と書かれた石碑がある。よく見かけるものだ。近づいて文字を読む。「垓下遺址 安徽省人民政府 一九八六年七月三日公布 固鎮県人民政府立」とある。道の反対側に紹介の看板があり、それにも「垓下遺址 固鎮県濠城鎮」とある。文化園でもらったパンフレットには、垓下遺址は霊璧県韋集鎮内とあり、地図上でも古戦場のマークは霊璧県にある。いったいここはどこだ。石碑が動いたのか。
しかしこれはすべて後で気づいたことで、そのときはてっきり固鎮県にいると思っていた。発掘調査のあとの出土品が固鎮県の博物館にあると、その場にいた村人に教えられたこともそう思わせたのかもしれないが、ついでにここはどこかと聞けばよかった。ともかく、文化園の受付嬢がどうしてあんなにがんばっていたのかという謎の一端がとけた気がする。
発掘調査の説明看板によると、むかしはこのあたりは地勢が高く周囲は掘割のように河がめぐっていたらしい。天然の要害である。垓下という地名は虞姫郷のあたりから固鎮にかけての広い範囲を指していたようで、この遺址はその核心部のようだ。
マツダに乗り、韋集へもどり、さらにバスで霊璧へ行き、そして泗洪に帰った。その夜は山東省青島のワタリガニも食卓にのぼり、海と河のじつにぜいたくな晩餐になった。(K)

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