高杉晋作と太平天国の乱 [歴史探訪]

 幕末の英雄、長州の高杉晋作は文久二年(1862年)、幕府随行員として長崎から上海に渡りました。
 この時高杉が見聞した内容は彼の『遊清五録』という日誌に残されていますが、清国が欧米の植民地になりつつあることに衝撃を受けたようでした。
 後に尊皇攘夷に身を投じる高杉ですが、下関での四カ国艦隊との戦争においては藩より和議交渉を任されました。
 その際、連合国側の要求の一つに領内にある関門海峡の要所・彦島の租借が含まれておりましたが、この点のみは頑として拒み結局要求を取り下げさせることに成功したのでした。
 この時、領土の租借がやがて植民地化に繋がることを高杉が見抜いていなければ、もしかしたら明治期の日本も末期の清国のように欧米列強に分割されてしまったのかも知れません。

 さて、幕府一行の船が上海・呉淞江に到着した5月6日のこと、高杉は『長髪賊』と『支那人』がこの地で戦ったということを聞き及びます。そして、翌7日には陸上で小銃の音が轟いているのを耳にしました。 一行はこれが長毛賊と支那人が戦っているものと知ります。 時はまさに『太平天国の乱』の時代でした。
 ここでいう支那人とは、曾国藩の湘軍や李鴻章の淮軍などの清朝側の兵士ではなく、上海租界に住んでいたアメリカ人フレデリック・タウンゼント・ウォードたちが中国兵を雇用してつくった自衛軍『洋槍隊』(後に『常勝軍』)のことを意味していると思われます。
 一方の長髪賊(長毛賊)とは、太平天国軍の兵士たちを意味しますが、彼らは頭部前半を剃って辮髪を結うという、言わば満州族王朝である清朝が漢族を服従させるために押し付けたヘアースタイルに対し、意図的に髪を伸ばして反抗の意思を表わしていたのでした。

 高杉は太平天国の乱の戦闘を見れるかも知れないということに大変興奮していたようですが、渡航前から体調を崩していたためか、または幕府随行員という立場のためか、実際の戦闘の詳細については遊清五録には記されていません。
 ただ、この史上最大の内戦のさなかの中国の空気というものは、若き高杉にとって病魔を押しのけて余るほどのカンフル剤でした。
 まるで安政の大獄で処刑された亡き師・吉田松陰の植えた種が開花したかのように帰国後は尊皇攘夷運動に突き進む高杉ですが、その『肥料』の一つが太平天国の乱だったのかも知れませんネ。

 尚、5月13日(日)の第9回南京探訪で訪問する『瞻園』は太平天国歴史博物館を兼ねています。
 よろしければ、この機会に太平天国の乱について学んでみませんか。(A.K.)


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